The School of Gravity Blog

栃木県・宇都宮市で「からだとこころの関係」をテーマにした学校(schoolofgravity.jp)を運営しています。

ボディーワーク個人セッションのご感想(大学院で文化人類学を専攻していた友人のYさん)

大学院で文化人類学を専攻していた友人のYさんが、東京から2日間にわたってThe School of Gravityに遊びにきてくださり、Yielding Embodiment®︎ Orchestrationのセッションを受けてくださりました。ご本人の許可を得て、以下に感想をシェアさせていただきます:

「Body workのすすめ」

 

学友(以下、Konoさん)がボディーワークなるものを始めたと聞いて、関心はあったのだが、なかなか踏ん切りがつかず、先延ばしにしていた。が、先日、ようやく受けに行くことができた。それに先立って、まずはオンラインセッションを持った。それから、二日続けて対面で、計3回ほどのセッションを経た体感をシェアしたい。

 

Konoさんの提供するイールディングというボディーワークは、私の体感、受けてみた実感として、あくまで一個人の感覚として、立っていること、ただ自然に二本足で立つということを取り戻していく時間だった。イールディングの時間のほとんどの間、施術を受ける側は寝転がっている。古典的な精神分析を受けるように、簡易寝台に横たわる。身体の感覚、身体が寝台に接している感覚、とりわけ、自らが心地よいと感じているところに注意を向けていく。人の感覚というのは不思議なもので、施術者にたすけられながら、自らの心地よい感覚に浸っていくことができれば、自ずとその心地よい感覚は周囲に拡がっていくものだ。ところが、それは急に一人でにスイッチの入り切りできるものではなく、だからこそ、イールディングを受ける意義があるということだ。

 

「意識を向ける」と書いたが、実際にそれはどういうことだろう。意識を向ける、その感覚から解放されるまで意識を向け続けて、いつの間にか「寝落ちする」。精神分析でもそういう患者は時々いるということだが、施術中に眠りこんでしまうことさえある。それも、深い意味では、心地よさへと信頼した結果かもしれない。こと、ボディーワークにおいては。

 

最初、素足で歩きながら、接地している感覚を確かめる。それから、横になった私の周りを、位置関係を確かめながら施術者がまわる。部屋のどのあたりに施術者がいる時が、最も心地よいかを確かめた上で、施術者はその場所を基点にイールディングに取り掛かる。実は、この最初の数分のやり取りの中に、身体感覚の神秘に迫るさまざまな感覚が、部屋の二人の間にやり取りされていると思う。人は互いの存在感を感じ取りながら生きているものだ。時には死者の存在感さえも。

 

オンラインでもこの行程を欠かさなかった。カルロス・カスタネダの『呪術師と私ードン・ファンの教え』の中に、ある部屋の中で座るのに相応しい場所を探しまわる、そんなシーンがなかったか。なんだかシャーマンの訓練のようだ。そんな印象も抱きながら、ひとまずは場の意識に信頼して、リラックスできるまで身体の位置を確かめる。

 

それから、しばらくの間、身体の調子を整える。イールドに入ると言えばいいだろうか。時折、そっと手を添えるようにして、私の身体感覚に意識を向けてくれる。寄り添ってくれる。私はただ、寝転がって、身体の感覚を確かめる。身体の心地良さに意識を向ける。

 

小一時間ほど経て、ゆっくりと起き上がる。時間をかけて、丁寧に起き上がる。そして、再び立ち上がってみる。何かが変わったことを確かめるように、少し大きな声で話しをしてみる。すると、いくらか声に張りが出て、元気になったように聞こえる。深い呼吸を繰り返した先の、緩やかな発声がいつのまにか準備されていた。

 

(実は私は学生時代に声楽をやっていた時期があり、そのことをKonoさんも知っていて、発声の感覚の変化にも興味があった)

 

それから一か月余り経ったろうか。日々、横になる度に、なんとなく身体の感覚を確かめるようにしている。疲れにくくなった。それから、自分がどんな姿勢でいるかをいくらか想像しやすくなったように思う。まだまだこれからというところだが、意識できる領域が広がっていく感覚を、僕は成長していくことだと思っている。ボディーワークを通じて、少しずつ成長している感覚がある。認識の刷新というのだろうか。何かを知識として吸収するのではなく、むしろ、内側から周囲を満たしていくような、充足感を味わうこと。言葉の発生する流れを意識し、無意識に落とし込み、再び意識化する。その繰り返しのように、身体を通して自己をニュートラルに意識することは、単純に心地良い。そんなことを考えるようになった。時折、施術者と時間を過ごして、この感覚を間主観的な、より共有可能なものにしたいと思う。